T、前書きと自己紹介 日本海軍が終戦直前に開発したジェット機の隠れた実話について、短い期間ではありましたが、直接この開発に参画した者として、如何に日本海軍が技術開発のために努力していたのかという事実の一端を戦後生まれた方々を含めて、 現在の日本人に対して、少しでも多くの方々に知って頂きたいと願って、このホームページに発表させて頂きました。 日本海軍の明治以来の技術発展に並々ならない努力を傾倒してきた事は事実であり、日本海軍伝統の精神の一つになっていた「日新又日新」という言葉が常に生きていた事は事実でありました。 勿論、当時の日米の技術力や生産力は比較にならないほどの差があり、到底戦局を挽回できる環境にはなかったのでありますが、このような事実があったという事を知って頂ければ幸いだと思います。 また、特攻機『橘花』と名前が示すように当然、戦闘機として使用できるジェットエンジンを装備しながら、特攻機としてしか生産も出来なかったし、パイロット養成も出来ないという異常な状況に遭遇してい た時の日本海軍の航空技術開発の裏話としてご理解して頂きたいと思います。 私の自己紹介ですが、当時海軍将校を養成する学校の一つである海軍機関学校を昭和十六年十一月十五日に卒業し、昭和二十年の終戦時には海軍大尉でした。 U、私の戦時中の行動の軌跡と特攻機『橘花』との関係 @ 空母翔鶴乗艦勤務の時期(機動部隊) 昭和十六年十一月十五日〜昭和十八年六月四日 真珠湾攻撃、インド洋作戦、珊瑚海海戦、第二次ソロモン海戦、南太平洋海戦 A 飛行機整備学生(追浜海軍航空隊)の時期 昭和十八年六月十日〜昭和十九年三月十四日 ジェットエンジンの育ての親である種子島海軍大佐より航空発動機受講 B 一式陸攻航空隊勤務(七〇一空、七五二空)の時期 昭和十九年三月十七日〜昭和二十年二月十一日 豊橋、北千島幌莚、千歳、美幌、比島クラーク、そして木更津基地に転戦 C 横須賀海軍航空隊附兼海軍航空技術廠附 昭和二十年二月一日〜昭和二十年六月三十日 D 第七二四航空隊分隊長兼横須賀海軍航空隊附 昭和二十年七月一日〜昭和二十年九月六日 上記CとDの任務は橘花開発支援と整備要員充足育成が目的であり、海軍航空技術廠を中心にしてネー20エンジン実験場の秦野出張所、橘花機体製作の中島飛行機小泉工場 、一号機試飛行する木更津基地等に移動を続けた。 そして二号機試飛行のため木更津より厚木基地に移動した日が終戦の日となった八月十五日でした。 私が特攻機『橘花』にかかわった期間は終戦直前の六ヶ月間でした。 |
V、ジェット機『橘花』開発と試飛行まで 私は突然の転勤命令で昭和二十年二月十二日に横須賀海軍航空隊に着任した。 「横須賀海軍航空隊附兼海軍航空技術廠附」という肩書き、その任務はジェット機、当時の言葉でタービンロケット機、特別攻撃機橘花の開発試験支援、整備技術の確立、そして整備基幹要員の養成であった。 ジェットエンジンの開発の経緯 歴史を振り返るとジェットエンジンの基本となるガスタービンの研究開発から出発しなければなりません。 ガスタービンの生みの親である種子島海軍大佐が早くから航空用ガスタービンの重要性を認識しておられ、昭和九年にこれに関する論文を出しておられます。パリ在勤二年後航空技術廠発動機部勤務となられ、排気タービン過給器の研究をなされ、昭和十六年春頃にジェット推進法の原理に思いつかれ、排気タービン過給器のガスタービンを利用しながらジェットエンジンの試作実験をして、昭和十八年にネー10と名付 けて実験を開始して、昭和十九年半ばまで続けられ、改良されネー12Bと命名して独力で試作研究が続けられた。 昭和十九年、ドイツより日本に向かって二隻の潜水艦が出航した。 万一に備えてそれぞれが、ドイツの誇るジェット戦闘機メッサーシュミットMe―262の設計図を携えていたという。 一隻は伊号二九潜水艦であり、それに同乗していた巌谷技術中佐がシンガポールから、ジェット戦闘機Me―262のBMW製のジェットエンジンの縦断面図(キャビネ版の写真一枚)および飛行機Me―163のロケットエンジン図面一式のみを持って昭和十九年七月に空路東京へ急遽帰国した。ジェットエンジンの詳細図を持っていたこの潜水艦はシンガポールを出港後台湾沖で沈められた。他の一隻も大西洋で沈められていた。 昭和十九年八月末頃永野治技術少佐が航本部員から、種子島大佐の先任部員として着任し、さらに昭和十九年十月初め頃、航本から、蒸気タービンの設計の専門家玉木技術中佐と露木技師が、このグループ参加することになった。 昭和十九年十月末頃に、種子島大佐はネー12Bの不良箇所対策会議の席上で「ネー12Bの設計と実験でかなりの経験も積み上げることが出来た。しかし、ネー12Bエンジンは中途半端であり、この際過去のことは一切ご破算にして、BMW製のジェットエンジンの写真図面を参考に、出直す方が賢明である。」と主張された。 皆もこれに賛成し、直ちに設計が開始され、急遽鋳造や鍛造がはじまり、発動機部機械工場は全力を上げ て加工にかかった。僅か四ヶ月と少しで、ネー20と名づけられた第一号機が運転台に据えられたという。 ネ−10、ネー12Bおよびネ−20の断面図 ジェットエンジンとの出会い 私が昭和二十年二月半ばに横須賀海軍航空隊に着任したのは丁度この時期でありました。 その頃、航空技術廠も空襲を避けるため各地に疎開していた。このジェットエンジンのテストの為に、神奈川県の大秦野に当時の言葉でタービンロケット実験場が作られていた。そこがこのエンジンとの出会いであり、種子島大佐と永野技術少佐を初めとする技術陣の方々との出会いでもありました。 当時既に、航空機、ガソリンともに欠乏し、海軍上層部としては松根油でも飛べるジェット機である橘花特攻機にかすかな期待を寄せていたことと思う。したがって、開発途上の中で量産に入ろうとする無謀な生産計画が強いられていた。 また、航空技術廠の組織も昭和二十年四月一日付で変更となり、発動機部から分かれて噴進部が編成され、タービンロケットと火薬ロケット(いわゆるMe―163と同型の秋水のエンジン)の開発として独立し、種子島海軍大佐が秦野出張所長となり、 永野技術少佐以下の技術陣がネー20の完成に全力を尽くしていた。 永野技術少佐には特に重い負担がかかっていたようであった。一方、橘花の機体一号機どうなっていたか。中島飛行機(現在の富士重工業)の大方の工場は爆撃で破壊されていたが、橘花の機体は群馬県の養蚕場を借り上げ、その中で組み立てていた。外部から見ると全く工場とは見えず、屋根その他外部の様子は田舎の養蚕場そのままでした。 さらに、秦野実験場ではネー20の改良のため技術陣は全力を挙げていた。高温に耐えるニッケル等の材料のないタービンブレードを使って日夜奮闘してついに特攻機のエンジンとして十分耐えると判断して、六月半ばに秦野のネー20実験プロジェクトは終わったのである。 私は着任当初より横須賀海軍航空隊の横穴の防空壕の事務所に一室を借り、橘花事務所と命名し、そこを根拠地として空技廠、秦野実験場そして中島飛行機を回っていた。 兵員の充足とともに、橘花試飛行のための機体とエンジンの点検準備と各種支援業務に日々忙殺されるようになってきた。 いよいよ木更津にて橘花一号機の試運転、試験飛行を実施するため、木更津に集結したのは五月中旬であった。 プロペラのない飛行機―ジェット機の初飛行成功 終戦までの三ヶ月間は橘花の試験飛行の成功を目指して全力を投入した時期である。 木更津での試飛行が決定すると各種の準備が始まり、一号機は七月八日に動翼やエンジン等外せる部分は分解梱包された。そして機体と共にトラックで木更津基地へ向けて輸送した。 一方、この橘花の初飛行にはベテランのテストパイロットの横空審査部々員高岡迪少佐が操縦桿を握ることになった。テストにおいてエンジンが不調にならず良好であっても、機体設計上、橘花の主輪は零戦用を転用したもので、これを新設計に改めるには半年を要するとされた。離陸時の速度は零戦では60ノットだが、橘花では100ノットになる。 この制動力改善にも設計変更するならば同様半年を必要とした。このほかも未解決項目はいくつもあったが、見切り発車するほど事態は切迫して いたのである。高岡少佐は当時の追いつめられた戦況に照らして、80パーセントの安全が立てるならば、覚悟の上でこの大役を受託したという。 組織上の変更も同時になされた。一号機の試飛行も実施しないうちに、実施部隊の編成が行われていた昭和二十年七月一日付で、ジェット機部隊が編成され、第七二四海軍航空隊(以下七二四空という。)と名づけ、初代司令には伊東祐満大佐であり、我々の橘花の試飛行にかかわる整備担当者も七二四空に配属され、私自身は木更津派遣隊長を命ぜられていた。七二四空本隊は伊東司令以下三沢基地に移動し、九九艦爆を使い離着陸の練成を開始していた。当時の言葉で七二四空をナナフタヨンクウと呼びます。 木更津基地の運ばれた一号機橘花の組み立ても終わり、七月半ば頃より私は整備の指揮をとり、自分で操縦桿を握って試運転を担当した。その頃になると木更津は既に敵戦闘機の空襲を頻繁に受けるようになっていた。飛行場の東端にある掩体壕の中で日夜整備点検に余念がなかった。 七月二九日に高岡少佐により二回の地上滑走を試み、エンジンと機体全体のチェックを行った。 地上での離陸促進ロケットのテストで一度トラブルが起きた。地上へ鎖をつけてロケットに点火した際、杭が脚の付根を壊した。直ちに中島飛行機の工員に来てもらい、脚の付根の破損部を徹夜で修理した。八月六日にも木更津基地に数機のP―51が基地に来襲したが、橘花は掩体壕の中にあって無事であった。 いよいよ試飛行の日、八月七日が到来した。丁度、その日に昨六日米空軍のBー29が広島に高性能爆弾を投下したと報じた。この日は燃料を半分以下を搭載しロケットを使用しない軽量の非公式の試験飛行であった。燃料は松根油を使用した。現在考えれば、これは国力の低下、日本の末期を象徴するものであった。 午前十時半、橘花は駆動車(風洞式のエンジン起動用自動車)により起動され、午後一時スタートの位置についた。パイロット高岡少佐は二,三十人の関係者の見守る中で、スロットルを全開しブレーキを放し、橘花は前進を始め速度を増した。 橘花は翔んだ! 機は脚を出したまま右旋回して東京湾上を一周し、無事ゆっくりと着陸した。僅か十一分でしたが、プロペラのない飛行機が日本の上空を始めて翔ぶことに成功したのです そして八月十一日に第二回の飛行が実施されることになった。その日以前に掩体壕の中で橘花の整備の合間に、種子島大佐と二人だけでお話をする機会がありました。種子島大佐は私に「広島に落とされた高性能爆弾は原子爆弾だよ。日本ではこの研究は殆んどしていないよ。」と言われたことを今でも鮮明に覚えています。 橘花三面図、および橘花要目表 栄光の橘花ついに立たず 八月八日ソ連は満州に突如不意打ち侵入を開始し、九日には長崎に二発目の原子爆弾が投下された。 その様な中で八月十一日、橘花は海軍省。航空本部や航空技術廠などのお偉方が綺羅星の如く滑走路前に並ぶ前で第二回目の飛行を行った。この飛行は燃料満載で離陸促進ロケット二本を翼下に搭載して、約30分間の飛行する公式の 試験飛行が実施されたのである。ベテランのテストパイロット 高岡少佐は落ち着いて座席につき諸準備完了、エンジン全開、離陸促進ロケット点火、全員の緊張は最高潮に達した。 橘花は走り出した。ロケットの出力は終わった。離陸できる速度まで順調であった。滑走路の中央まで来た。しかし、高岡少佐はスロットを一杯引き、ブレーキをかける。最大重量の橘花は中々減速せず車輪から煙が出る。滑走路の末端に達し、あわや止まるかと思う瞬間、海岸の崖から海の中にボチャン。 さいわい、崖も低く干潮であっ たためパイロットは無事、橘花は引揚げる余裕もなく潮が満つるともに海面下に沈んでしまった。 この試飛行の様子を映画フイルムにとっていたので、数日後一回だけ再現して映した。後日詳細に原因の調査に利用することにしていた。 しかし、終戦とともにこのフイルムは焼却された。この事故は機材の不良か、パイロットのミスか、正式には永久のなぞとなったのである。 後年、高岡少佐がある記述の中で「第二回飛行の時に、私の錯覚だと思いますが、地上滑走途中で飛行をやめようと決心して、その処置をいたしましたが、飛行機を壊してしまいました。 間もなく終戦を迎え、その原因は正式には闇の中に葬られたわけですが、私は私の錯覚ではなかったかと思っております。」と述べておられました。 八月十五日の厚木基地 木更津派遣隊は橘花二号機による第三回目の試飛行は滑走路の長い厚木基地で実施することになり、八月十五日、派遣隊は丁度木更津からの厚木へ移動の日であった。厚木基地に到着したのは夕刻、既に天皇の終戦詔勅が下された後である。厚木基地は小園大佐以下が徹底抗戦を叫ぶ中心 の戦闘機部隊の基地であった。私の派遣隊は数十名であったが、私の本隊のある三沢基地の伊東司令と連絡をとって、 今後の行動の指示を受けたかったが、全く通信手段がなかった。ついに、派遣隊は本隊に合流すべく、独断で三沢基地に向かって出発することにした。 出発に際し、小園司令、副長に呼ばれ、「伊東司令によろしく徹底抗戦に協力するよう伝えてくれ。」と要請された。徹底抗戦を誓う小園部隊の掲げる楠公の七生報国の旗の林立する厚木基地を後にしたのは八月十八日であった。 三沢基地での復員業務は伊東司令の下で極めて順調に行われ、九月十五日までに全員の復員が完了した。 終わり HOME |